ハンセンボランティア「ゆいの会」が、ここ数年来取り組んでいる、国立療養所長島愛生園に5棟残る「十坪住宅」の1つ「徳島路太利」の修復に向けて、来年から新たな動きが始まります。
これまでゆいの会で集めた寄付金で「徳島路太利」の修復工事を請け負ってもらえる建築会社が、あらたに決まりました。12月に、建築士の方には、ゆいの会の運営委員会にも同席していただき、修復に向けたプランについて意見交換をしました。年明けには、請負契約を締結し、3月頃から着工し、10月頃には完成のおおまかな予定も決まりました。
ようやく、ゆいの会が、ここ数年間、市民の皆さんのご支援を得て取り組んできたことが、一つの形になります。今後、進捗情報をこのブログ等でお知らせします。
(十坪住宅の沿革等)(『隔離の里程 長島愛生園入所者50周年史』、『曙の潮流 長島愛生園入園者自治会史』など)。
絶対隔離政策の遂行のため開設された国立療養所長島愛生園は、開設後4か月で、収容患者数は、定員400名を超え、以後、定員超過の状態が続いていました、このような状況の下、より多くのハンセン病患者を隔離収容するために、愛生園初代園長光田健輔が考案したのが、10坪住宅運動でした。光田園長は、大正12年に、フィリピンのクリオンハンセン病療養所を視察したとき、3,000人もの患者がニッパ葺きの小屋に住んでいるのを見、十坪住宅のヒントを得たと言われています
十坪住宅運動は、広く国民から寄付金を募り、患者作業により1棟400円(1933年より500円、1936年には600円となる)の資金の調達の予算で、6畳2間の十坪住宅を建設し、建設後はこれを国庫に寄付する形で、定員を超過した入所者の住宅にあて、1棟に6~8人を収容しようとするものでした。
愛生園がその当時発行した愛生パンフレット第三輯「十坪住宅」は、《愛国献金》として、次のように記述しています。
「十坪住宅1棟は、5百円で出来る。六畳敷二室と、台所、便所を備えた瀟洒な建物である。そこには六人乃至八人の病者が住めるから五百円あれば六人乃至八人の病者が暗黒より救われ、社会は六人乃至八人の癩者に依る伝染の危険から免れることゝなる。即ちこの運動は、単に患者の保護だけでなく、健康なる一般国民の保護である。愛国献金の名のつけられた所以である。」
このように、十坪住宅建設は、「祖国を浄化せむが為」になされるものであり、「単に患者の保護だけでなく、健康なる一般国民の保護」のための運動と位置付けられており、国からは予算は定員分しか出ないため、「在園患者にとっては、衣食住のすべてに亘る生活資料の割愛を偲ばねばならぬ結果となり、生活標準低下の招来を覚悟しなければならぬ」(四谷義之「十坪住宅運動の生命と価値」愛生9号(十坪住宅建設寄付金三萬円突破記念号)と犠牲奉仕の精神が求められました。
長島愛生園では、1934年8月末から十坪住宅建設運動を進め、定員を超えた過剰収容を推し進めていきましたが、国は寄付した建物に見合う経常費を要請どおりにつけなかったために、入所者の療養生活は困窮を極め、昭和11年には、入所者らが処遇の改善と自治を求めハンストに入るという「長島事件」が起こりました。
しかし、光田園長は、その後も絶対隔離政策を貫徹するため「十坪住宅」建設を諦めず、隔離収容を進めるための寄付金が集められました。その結果、1944年(昭和19年)末までに、149棟の十坪住宅が建設され、定員を大幅に超える過剰収容が行われました。
(徳島路太利)
「徳島路太利寮」は、長島愛生園の小川正子医師(「小島の春」(長崎出版)の著者)が、らい検診の途中、徳島ロータリークラブに招かれた際に寄せられた献金によって建てられた「十坪住宅」で、昭和11年7月の長島事件が起こった翌年に、大人5~6名を収容するために単身者用として建設された建物です。坪数は10坪。
厚労省の「歴史的建造物の保存等検討委員会」の十坪住宅に対する評価は、「資料などから、内部を含め当初の姿を確認できるならば、十坪住宅発祥の地という意味で、復元する意味が認められる」としています。
この点、ゆいの会では、「徳島路太利」は、当初の姿が比較的残されていること、当初の図面が残されていること、小川正子医師が、長島事件後も、さらに隔離収容を進めるために行ったらい検診の途中、徳島ロータリークラブに招かれた際に寄付された献金によって建設されたという経緯もあり隔離の歴史を象徴する建物であること、などの理由で修復対象としました。
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