今年のハンセン病市民学会in名護・宮古で企画された、八重山のハンセン病の歴史を巡るツアーについて、琉球朝日放送が、レポートしています。
1916(大正6)年、日本政府は、内務大臣管轄下に保健衛生調査会を設置した。
第四部会に光田健輔も委員に名を連ね、このなかで、光田は、「放浪患者」のみ隔離収容するのではなく、全てのハンセン病患者を隔離することを強く主張し、その構想実現のために行動を始めました。
光田健輔は、こうした絶対隔離の場所として、沖縄県の西表島や岡山県の鹿久居島・長島などの離島を調査しました。
1917(大正7)年1月、光田健輔は、後藤新平内務大臣に、西表島を最適とする報告をしました。
しかし、西表島は、マラリアの多発地帯であったため、光田健輔の、「西表島」構想は、内務省の採用するところとならなかった。
代わって候補地とされたのは、岡山県瀬戸内市邑久町の長島であった。
琉球朝日放送 報道部 » Qリポート ハンセン病隔離構想の島
1916(大正6)年、日本政府は、内務大臣管轄下に保健衛生調査会を設置した。
第四部会に光田健輔も委員に名を連ね、このなかで、光田は、「放浪患者」のみ隔離収容するのではなく、全てのハンセン病患者を隔離することを強く主張し、その構想実現のために行動を始めました。
光田健輔は、こうした絶対隔離の場所として、沖縄県の西表島や岡山県の鹿久居島・長島などの離島を調査しました。
1917(大正7)年1月、光田健輔は、後藤新平内務大臣に、西表島を最適とする報告をしました。
しかし、西表島は、マラリアの多発地帯であったため、光田健輔の、「西表島」構想は、内務省の採用するところとならなかった。
代わって候補地とされたのは、岡山県瀬戸内市邑久町の長島であった。
琉球朝日放送 報道部 » Qリポート ハンセン病隔離構想の島
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