5月12日(土)、13日(日)、ハンセン病市民学会が、群馬県草津で開催されます。わたしも参加することにしました。
「ハンセン病問題に関する検証会議」が立ち上がるまえに、その準備段階で栗生楽泉園を訪れたことがあり、園内もみせていただいたことがあり、再び、訪れることができるのを楽しみにしています。
ところで、草津は、エルヴィン・ベルツも有名です。
栗生楽泉園を訪れた頃、読んだベルツ日本文化論集(東海大学出版会 2001年刊)に、19世紀後半、ヨーロッパで再びハンセン病患者を隔離すべきだという議論がわき上がったころに、ベルツが日本の経験に基づいて、世界に向けて警鐘をならした、興味深い論文が掲載されていますので、紹介します。
一つが、「ハンセン氏病の理論と療法」という原稿で、国際ハンセン氏病学会が開催された1897年、「ベルリン医療週報」誌(第46号)に発表された論文である。翌98年には日本の「医事新聞」(第513~517)に翻訳が掲載されています。
「ここ何十年間にヨーロッパのほとんどすべての国で、もはや学問的価値のある奇病ではなく、実社会にとって重要な病気と考えられるようになったハンセン氏病に、つい最近、ふたたび強い関心が向けられるようになった。
早くも悲観主義者たちは、中世の年代記に登場する流行病のなかで最も恐ろしいこの病気が新たな蔓延期を迎えようとしていると、警告と嘆きの声を上げている」
「こうした状況下にあって、ハンセン氏病患者が現在では隔離されなくなった国で私が20年以上にもわたって観察してきた結果を報告することは、少なからぬ意義があると思う」と述べ、日本で、ベルツが経験した、以下のような5つの事実を挙げて、隔離に対し、警鐘をならした。
「(1)東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。
(2)・・・
(3)・・・
(4)・・・
(5)・・・(略)」
もう一つの原稿は、「ハンセン氏病について」である。
この原稿は、ビーティヒハイム・ビッシンゲン市の私立文書館に保管されていた印刷原稿。なんらかの会議での発表要旨と思われると、訳者の池上純一氏は記載している。
同原稿には、つぎのように書かれています。
「私はハンセン氏病について、どうしてもひと言申し上げておかなければなりません。というのも、この病気についての私の経験は多くの点で通説とは相容れないからです。近年、ハンセン氏病は感染性があるとされ、毎度サンドウィッチ諸島が引き合いに出されますが、そこでもすでにハンセン氏病は感染性が高いという考え方に対して揺り戻しがはじまっています。私自身、8年間ずっと自分の病院でハンセン氏病患者たちを普通の病人の間に寝かせてきましたが、感染を疑わせる例はひとつもありません。ハンセン氏病棟で10年、15年と勤務を続けた看護婦にも、感染を示す徴候はあらわれませんでした。3世代にわたってハンセン氏病患者といっしょに暮らしてきた専門医も、私と同じ経験をしています。・・・」
「以前は、どの国でも、この病気は伝染するものと考えられてきました。やがて幾つかの国々で次第に世論の風向きが変わり、昔ならば隔離していた患者たちを安心して社会の中に住まわせるようになってきたのです。ところが近年、雲行きが怪しくなり、彼らをもう一度隔離すべきではないかと問う声が上がりはじめています。この不幸な人々を無慈悲にも家族の中から引きずり出し、サンドウィッチ諸島で医師たちのはたらきかけによって行われたように、社会の外へ追放するなどいうやり方に対し、私は人類の名において抗議せずにはいられません。現在行われているような、問題を理詰めで処理しようとするあまり大衆を不安に陥れる議論が続くならば、間違いなく恐るべき事態が待ち受けているといわざるを得ません。」
と警鐘を鳴らしていたのです。
日本政府は、ベルツが、日本を離れるのをまっていたかのように、1907年「癩予防ニ関スル件」を制定し、浮浪患者の収容に着手することになり、その後、患者の完全収容に向けてまで突き進んだのです。
「ハンセン病問題に関する検証会議」が立ち上がるまえに、その準備段階で栗生楽泉園を訪れたことがあり、園内もみせていただいたことがあり、再び、訪れることができるのを楽しみにしています。
ところで、草津は、エルヴィン・ベルツも有名です。
栗生楽泉園を訪れた頃、読んだベルツ日本文化論集(東海大学出版会 2001年刊)に、19世紀後半、ヨーロッパで再びハンセン病患者を隔離すべきだという議論がわき上がったころに、ベルツが日本の経験に基づいて、世界に向けて警鐘をならした、興味深い論文が掲載されていますので、紹介します。
一つが、「ハンセン氏病の理論と療法」という原稿で、国際ハンセン氏病学会が開催された1897年、「ベルリン医療週報」誌(第46号)に発表された論文である。翌98年には日本の「医事新聞」(第513~517)に翻訳が掲載されています。
「ここ何十年間にヨーロッパのほとんどすべての国で、もはや学問的価値のある奇病ではなく、実社会にとって重要な病気と考えられるようになったハンセン氏病に、つい最近、ふたたび強い関心が向けられるようになった。
早くも悲観主義者たちは、中世の年代記に登場する流行病のなかで最も恐ろしいこの病気が新たな蔓延期を迎えようとしていると、警告と嘆きの声を上げている」
「こうした状況下にあって、ハンセン氏病患者が現在では隔離されなくなった国で私が20年以上にもわたって観察してきた結果を報告することは、少なからぬ意義があると思う」と述べ、日本で、ベルツが経験した、以下のような5つの事実を挙げて、隔離に対し、警鐘をならした。
「(1)東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。
(2)・・・
(3)・・・
(4)・・・
(5)・・・(略)」
もう一つの原稿は、「ハンセン氏病について」である。
この原稿は、ビーティヒハイム・ビッシンゲン市の私立文書館に保管されていた印刷原稿。なんらかの会議での発表要旨と思われると、訳者の池上純一氏は記載している。
同原稿には、つぎのように書かれています。
「私はハンセン氏病について、どうしてもひと言申し上げておかなければなりません。というのも、この病気についての私の経験は多くの点で通説とは相容れないからです。近年、ハンセン氏病は感染性があるとされ、毎度サンドウィッチ諸島が引き合いに出されますが、そこでもすでにハンセン氏病は感染性が高いという考え方に対して揺り戻しがはじまっています。私自身、8年間ずっと自分の病院でハンセン氏病患者たちを普通の病人の間に寝かせてきましたが、感染を疑わせる例はひとつもありません。ハンセン氏病棟で10年、15年と勤務を続けた看護婦にも、感染を示す徴候はあらわれませんでした。3世代にわたってハンセン氏病患者といっしょに暮らしてきた専門医も、私と同じ経験をしています。・・・」
「以前は、どの国でも、この病気は伝染するものと考えられてきました。やがて幾つかの国々で次第に世論の風向きが変わり、昔ならば隔離していた患者たちを安心して社会の中に住まわせるようになってきたのです。ところが近年、雲行きが怪しくなり、彼らをもう一度隔離すべきではないかと問う声が上がりはじめています。この不幸な人々を無慈悲にも家族の中から引きずり出し、サンドウィッチ諸島で医師たちのはたらきかけによって行われたように、社会の外へ追放するなどいうやり方に対し、私は人類の名において抗議せずにはいられません。現在行われているような、問題を理詰めで処理しようとするあまり大衆を不安に陥れる議論が続くならば、間違いなく恐るべき事態が待ち受けているといわざるを得ません。」
と警鐘を鳴らしていたのです。
日本政府は、ベルツが、日本を離れるのをまっていたかのように、1907年「癩予防ニ関スル件」を制定し、浮浪患者の収容に着手することになり、その後、患者の完全収容に向けてまで突き進んだのです。
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