"書籍・映画"カテゴリーの記事一覧
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今日の午後、相続財産管理人の仕事で、しばらくぶりに長島愛生園に行ってきました。懐かしい景色をみて、あらためて崔南龍さんの写真集をめくっています。
「崔南龍写真帖 島の65年 ハンセン病療養所邑久光明園から」は、2006年12月に、(株)解放出版社から発行されました。
崔さんは、1931年に神戸市春日野道に生まれ、41年7月15日、10歳のときに、国立療養所邑久光明園に入所し、園内の少年少女舎「双葉寮」で療養生活。同時に園長が校長となっている園内の「光明学園」小学校4年に編入。
以来、65年にわたり、長島で暮らしている。
崔さんは、ハンセン病問題に関する検証会議が、邑久光明園で開催されたときに、検証会議委員の前で、入所者の一人として体験を語られた方で、私が聴き取りの担当をさせていただいた方です。
この写真帖には、懐かしい風景が、沢山写真に収まっています。今は亡き千葉さんや竹村さんのなつかしい姿も。
「光明学園」は、屋根等の補修工事が行われ、近々、邑久光明園の「資料室」として生まれ変わるとのことです。楽しみにしています。
長島全体が、ながくハンセン病の歴史を後世に伝える場として、また人権の大切さを学ぶ場として、末永く残されていくことを願っています。PR -
5月13日に、栗生楽泉園(群馬県)の重監房跡をはじめて訪れました。
1938年に栗生楽泉園に作られた重監房は、特別病室とも呼ばれました。現在は、基礎のみが残されており、これを現地で復元したいという運動が進められていることは、先日書きました。特別病室は、どのような構造となっていたのか、知る人はわずかだということです。
そうした人の一人である沢田五郎さんが、「特別病室をみた者として、記録に残しておかなければならないという責任感にかられ、栗生楽泉園機関誌『高原』に連載したものをまとめた」ものが、「とがなくてしす 草津重監房の記録」(2002年、皓星社)という書籍です。
沢田さんによれば、特別病室は、以下のようなものだったそうです。
「この特別病室があったのは、園の正門から西に入る道が八十メートルほど行って行き止まりになった先の、やや低地になったあたりである。今は礎石だけが残り、「重監房跡」と彫られた碑もたっている。建坪三十二・七五坪(約百八平方メートル)、二棟になっていて(一棟だが、迷路のように通路が入り込んでいたので、二棟と思われたという説もある)、治療室と看守の控室と、罪を犯した患者を入れる房が八房、一房の広さは便所を含めて約四畳半、床は厚い板張で、壁には、コンクリートがむき出しのところもあったが鉄板が張られており、高いところに1ヶ所明り取りの窓がある。この寸法は縦十三センチ・横七十五センチで、硝子戸が二枚はめられ、引き違いに動くようになっている。窓の外には鉄格子がある。食事を差し入れる窓は足元にあり、普通の便所の掃き出し窓よりも小さく、汁椀がやっとくぐるくらいとなっている。周囲には高さ約四メートルの鉄筋コンクリートの塀が巡らされ、内房も一房一房、同じ高さの塀で仕切られ、通路にも一房ごとに三尺角(約一メートル四方)の扉がある。その扉にはいうまでもなく、錠が下ろせるようにできている。」
「電気の配線はなされていたが電球は取り付けられてなく、収監者には袷一枚と布団二枚が与えられただけで、火の気は与えられない」
「明かり取りの窓は高くて小さいゆえ、幾重にも高い塀で閉ざされた塀の中は暗く、曇った日には昼夜の区別さえつかなかったという。そして、誰かが掃除をしてくれるわけではなく、箒も雑巾もないから、湿気るにまかせ、冷えるにまかせるほかなく、冬は吐く息が氷柱となって布団の襟に下がり房内は霜がびっしりと降りた。」
「収監者には減食の刑も課せられているので、日に二回、薄い木の箱に入れた少量の飯が差し入れられるだけである。」「おかずは朝昼とも梅干一個だった」
栗生楽泉園は1932年に設立され、その5年後の1938年12月に、この特別病室が建てられたましたが、その経緯はつぎのようなものです。
当局は、1931年の「癩予防法」改正の際に、さらに強い所内の規律維持手段が必要であると考えていましたが、その矢先、大島青松園で「ラジオ事件」、33年には外島保養院で「外島事件」、そして、36年には長島愛生園で「長島事件」が起こり、大きな社会問題となり、こうした状況のなかで、これらの騒動の首謀者を服役させる刑務所が必要ではないかという意見が高まり、それを具体化する場所として、楽泉園が選ばれ、特別病室が造られることになりました。
なお、植民地下にあった韓国の小鹿島(ソロクト)更生園には、1935年にすでに重監房が造られていました。
毎年、夏に開催されている厚労省と統一交渉団の「ハンセン病問題対策協議会」でも、特別病室の復元問題が一つのテーマとなっています。
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5月12日(土)、13日(日)、ハンセン病市民学会が、群馬県草津で開催されます。わたしも参加することにしました。
「ハンセン病問題に関する検証会議」が立ち上がるまえに、その準備段階で栗生楽泉園を訪れたことがあり、園内もみせていただいたことがあり、再び、訪れることができるのを楽しみにしています。
ところで、草津は、エルヴィン・ベルツも有名です。
栗生楽泉園を訪れた頃、読んだベルツ日本文化論集(東海大学出版会 2001年刊)に、19世紀後半、ヨーロッパで再びハンセン病患者を隔離すべきだという議論がわき上がったころに、ベルツが日本の経験に基づいて、世界に向けて警鐘をならした、興味深い論文が掲載されていますので、紹介します。
一つが、「ハンセン氏病の理論と療法」という原稿で、国際ハンセン氏病学会が開催された1897年、「ベルリン医療週報」誌(第46号)に発表された論文である。翌98年には日本の「医事新聞」(第513~517)に翻訳が掲載されています。
「ここ何十年間にヨーロッパのほとんどすべての国で、もはや学問的価値のある奇病ではなく、実社会にとって重要な病気と考えられるようになったハンセン氏病に、つい最近、ふたたび強い関心が向けられるようになった。
早くも悲観主義者たちは、中世の年代記に登場する流行病のなかで最も恐ろしいこの病気が新たな蔓延期を迎えようとしていると、警告と嘆きの声を上げている」
「こうした状況下にあって、ハンセン氏病患者が現在では隔離されなくなった国で私が20年以上にもわたって観察してきた結果を報告することは、少なからぬ意義があると思う」と述べ、日本で、ベルツが経験した、以下のような5つの事実を挙げて、隔離に対し、警鐘をならした。
「(1)東京大学の病院の大部屋で、私は20年以上にもわたって常にハンセン氏病患者を、他の患者達の間に寝かせてきた。しかし、患者も医療従事者も誰ひとりハンセン氏病に感染しなかった。潜伏期間が長いために感染の事実が立証できないだけだというよくある反論も、20年を超える時間の長さを前にしては無効である。
(2)・・・
(3)・・・
(4)・・・
(5)・・・(略)」
もう一つの原稿は、「ハンセン氏病について」である。
この原稿は、ビーティヒハイム・ビッシンゲン市の私立文書館に保管されていた印刷原稿。なんらかの会議での発表要旨と思われると、訳者の池上純一氏は記載している。
同原稿には、つぎのように書かれています。
「私はハンセン氏病について、どうしてもひと言申し上げておかなければなりません。というのも、この病気についての私の経験は多くの点で通説とは相容れないからです。近年、ハンセン氏病は感染性があるとされ、毎度サンドウィッチ諸島が引き合いに出されますが、そこでもすでにハンセン氏病は感染性が高いという考え方に対して揺り戻しがはじまっています。私自身、8年間ずっと自分の病院でハンセン氏病患者たちを普通の病人の間に寝かせてきましたが、感染を疑わせる例はひとつもありません。ハンセン氏病棟で10年、15年と勤務を続けた看護婦にも、感染を示す徴候はあらわれませんでした。3世代にわたってハンセン氏病患者といっしょに暮らしてきた専門医も、私と同じ経験をしています。・・・」
「以前は、どの国でも、この病気は伝染するものと考えられてきました。やがて幾つかの国々で次第に世論の風向きが変わり、昔ならば隔離していた患者たちを安心して社会の中に住まわせるようになってきたのです。ところが近年、雲行きが怪しくなり、彼らをもう一度隔離すべきではないかと問う声が上がりはじめています。この不幸な人々を無慈悲にも家族の中から引きずり出し、サンドウィッチ諸島で医師たちのはたらきかけによって行われたように、社会の外へ追放するなどいうやり方に対し、私は人類の名において抗議せずにはいられません。現在行われているような、問題を理詰めで処理しようとするあまり大衆を不安に陥れる議論が続くならば、間違いなく恐るべき事態が待ち受けているといわざるを得ません。」
と警鐘を鳴らしていたのです。
日本政府は、ベルツが、日本を離れるのをまっていたかのように、1907年「癩予防ニ関スル件」を制定し、浮浪患者の収容に着手することになり、その後、患者の完全収容に向けてまで突き進んだのです。
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中山節夫監督の「新・あつい壁」が完成したそうです。
先日,ご案内しました5月の「ハンセン病市民学会」の前夜祭でも上演されるそうです。
昨年,中山監督自ら,倉敷の私の事務所までお見えいただき,今回の新作についての思いを聞かせていただきました。
今回,「ゆいの会」でも,「新・あつい壁」の上映・普及を支援することを,運営委員会でも決め,先日の総会でも報告しました。
岡山県でも早い時期に,上映会を計画できればと考えています。その際には,皆様のご支援ご協力をお願いします。
中山節夫監督は,ハンセン病に関する作品としては,1970年に,昭和二八年に熊本で起きた黒髪小学校事件をもとに、一市民一家の悲劇を通して、ハンセン病への偏見と差別を告発した作品「あつい壁」を,1998年には「見えない壁を越えて 声なき者たちの証言」を発表。後者は,第53回毎日映画コンクール記録映画賞長篇部門を受賞。日本映画ペンクラブノンシアトリカル部門第5位。98年度キネマ旬報文化映画ベスト・テン第7位。
今回の「新・あつい壁」は,「見えない壁を越えて」から,9年ぶりの作品となります。
以下は,全療協の神事務局長の映画評です。
映画「新・あつい壁」の普及を期して
「新・あつい壁」の試写を観る機会をあたえられ、船の進水式に立ちあうようなわくわくする気持ちで出かけた。試写会は調布市の東京現像所内で行われた。中山監督をはじめ、映画制作にかかわったごく内輪の関係者だけが試写室に集まっていた。
約2時間の上映時間は、あっという間に過ぎた。終わってから、時間の観念も、客観的視点も忘れて、映画に引き込まれていた自分に気がついた。涙があふれた。
それは、ふる里の家族とともに、いまなお社会の偏見と差別に苦しみ続けなければならない不条理に、いい知れぬ憤懣を覚えたことと、私たちと家族はそれを社会に向かって訴える術もなく忍耐をしいられている悲しみが、画面をとおして再び胸中によみがえってきたからである。
ハンセン病問題は、まだ多くの課題を残している。しかし、市民からすでに忘れ去られようとしており、社会には新たな差別が横行している。人権や人間の尊厳は、従来になく、けたたましく社会で叫ばれるようになってはいるが、上すべりしているとしか思えない。
この映画は、人の傲慢さを問い、社会の構造的差別の問題を再現して見せ、そして一人ひとりに深く本質的に問いかけている点で、私は深い感銘を受けた。
ぜひ多くの市民に観てほしいと思う。全国ハンセン病療養所入所者協議会 事務局長 神 美 知 宏
中山監督の「新・あつい壁」映画製作ノート
http://kumamoto.cool.ne.jp/nakayama2005827/index.html
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昨日の総会の映画「小島の春」を観て,当時の愛生園の状況がどうであったのか,ふりかえってみました。
「語り部覚え書 付-今はエピソード」阿部はじめ著(自費出版)によれば,小川正子が,愛生園で医官として勤務していた当時の愛生園の状況は,以下のようなものでした。
「長島愛生園は昭和6年定員400人で発足し,3月28日より収容を開始した,そして,同年8月早くも定員を超過する。そしてその後も収容者は絶えることがなかった。これは同年4月予防法が改正され,それまでの浮浪者対象から在宅の者まで完全収容する法律になったからだ。愛生園は各府県に検診医を派遣し,発見した患者を施設に送り込んだ。この地域分担主義を超えての収容は府県立の他施設から「やり過ぎ」との批判を受けたが,光田園長は「伝染病施設に定員はない」として収容を続けた。一万人収容構想に敗れて定員400名を与えられた光田園長の無念のようなものがあったのかも知れない。しかし,その背景には入所を求めて対岸にまで来て,入所を断られ自殺者があったことも事実だった。この状況を打開するため同年12月愛生園は十坪住宅寄付運動を起こした。「癩根絶のために十銭を投ぜよ。一棟600円で4人から8人の同胞が救われる」と書いた愛生献金袋を各府県に送付した。国の施策を待っていられぬという性急さが感じられる。
この過剰収容によって昭和11年処遇低下に耐えかねた入所者が処遇の改善と自治を求めて全員の血判を添えた嘆願書を内務大臣に提出しハンストに入るという「長島事件」が起こった。施設は「これで事業は停滞しお前たちは世間の同情を失った」と入所者を責めた。しかしこの事件によって予算は実員に近いものに改められたのは皮肉であった。
光田園長は隔離の代償として愛生園を「患者の楽土」とすることを構想した。光田園長の理念は「愛生園歌」に率直に表されている。・・・(中略)・・・
この園歌は,毎月の月例開園記念日で歌われた。大家族主義の主役は患者作業だった。人間の生活に必要なあらゆる業種が揃っていた。作業は「療養の効果を上げるため」とされた。大風子油注射を週二回うけるほか治療らしいもののない中で毎日が退屈気分で男女関係の制限,外出禁止などで暴動の起きる要因もいたるところにあった。男女間の制限については結婚制度を取り入れることによって切り抜けようとした。それらのエネルギーを放散させるためにも患者作業は一つの安全弁となった。労働対価として外部の十分の一とも言われる作業賞与金の支給も仕送りのない者の貴重な収入であった。そして作業にはげむことによってみんなの生活がよくなり充実されて行くということもみんなの共感となって殆どの者が作業に従事した。・・・・・・病気のことは二の次で,この社会に順応することが優先された。看護,介護も自給自足だった。国立ではなく「患者立療養所」と言われた所以だった。・・・・昭和15年(皇紀二千六百年)全国療養所の収容患者数は9125名となり「一万人収容計画はほぼ達成された」とされた。」
小川正子が,愛生園に勤務していた頃,また,手記「小島の春」が出版された昭和13(1938)年から映画「小島の春」が初めて上映された昭和15(1940)年の頃の愛生園は、以上のような状況であり,映画のなかで描かれたような,「楽土」といえるような状況でなかったことは認識しておく必要があると思います。