12月4日、5日、東京へ出張していました。被爆者が、国を相手に訴えを提起している原爆症認定集団訴訟も大詰めを迎えています。岡山地裁でも一年前に原爆症認定訴訟を提起しました。4日は、全国の原爆症認定集団訴訟の原告、支援者らが、厚生労働省前で全面解決を求めてアピールを行いました。午後は、衆議院第一議員会館での院内集会、午後6時からは、九段会館での「集団訴訟に勝利し核のない世界を求める夕べ」と題する集会が開催されました。
昨日、東京出張中に、邑久光明園の中山秋夫さんが逝去されたとの連絡を受けました。中山秋夫さんは、1999年9月に岡山地裁にハンセン病違憲国賠訴訟を提起するに当たって、原告団長となっていただきました。
中山秋夫さんは、人権が侵害されている者は、自らの人権を守るためには、「寝た子を起こしてでも」、自らが立ち上がらなくてはいけないと言い続けて、訴訟の先頭に立ってこられました。
当初、療養所内では仲間からさえ、「国相手に裁判などせす、そっとしておいてほしい」、「寝た子をおこさないでほしい」、「訴訟に負けたら、自分たちは療養所から追い出されるのではないか」という声も多く、国賠訴訟の提起に対しては風当たりも強く、冷ややかな目でみられていました。
中山さんは、仲間のそのような気持ちも理解しつつも、「寝た子を起こさない」といけないということを訴え続けていました。
また、中山秋夫さんは、酷薄を極めた国のハンセン病患者隔離・絶滅政策の下で、死んでいったいのち、そのいのちが、今なお生き残っている私に、なぜ、自分たちが死ななければならなかったのかと問いかけてくる。自分は、今もその責めのなかに生きている、と話されていました。
その思いは、中山秋夫さんの「責め」(句集中山秋夫「一代樹の四季」)という詩に表わされています。
その思いは、私たち弁護士の胸にも、痛いほど伝わりました。
中山秋夫さんの「責め」と題する詩は、まさに、ハンセン病患者の方々に対して甚大な人権侵害を与え続けてきた、国の永年にわたる誤った隔離政策を見過ごしてきた法曹(弁護士ら)に対する痛烈な問いかけでもあったのです。
私たち瀬戸内弁護団は、中山秋夫さんのそのような思いが詰まった「責め」という詩を、瀬戸内訴訟の訴状の冒頭に置いて、以来、ハンセン病訴訟を闘ってきました。
瀬戸内訴訟原告団の中心となり、訴訟を支えてくださった中山秋夫さんへの感謝とともにご冥福をお祈りします。
昨日、東京出張中に、邑久光明園の中山秋夫さんが逝去されたとの連絡を受けました。中山秋夫さんは、1999年9月に岡山地裁にハンセン病違憲国賠訴訟を提起するに当たって、原告団長となっていただきました。
中山秋夫さんは、人権が侵害されている者は、自らの人権を守るためには、「寝た子を起こしてでも」、自らが立ち上がらなくてはいけないと言い続けて、訴訟の先頭に立ってこられました。
当初、療養所内では仲間からさえ、「国相手に裁判などせす、そっとしておいてほしい」、「寝た子をおこさないでほしい」、「訴訟に負けたら、自分たちは療養所から追い出されるのではないか」という声も多く、国賠訴訟の提起に対しては風当たりも強く、冷ややかな目でみられていました。
中山さんは、仲間のそのような気持ちも理解しつつも、「寝た子を起こさない」といけないということを訴え続けていました。
また、中山秋夫さんは、酷薄を極めた国のハンセン病患者隔離・絶滅政策の下で、死んでいったいのち、そのいのちが、今なお生き残っている私に、なぜ、自分たちが死ななければならなかったのかと問いかけてくる。自分は、今もその責めのなかに生きている、と話されていました。
その思いは、中山秋夫さんの「責め」(句集中山秋夫「一代樹の四季」)という詩に表わされています。
その思いは、私たち弁護士の胸にも、痛いほど伝わりました。
中山秋夫さんの「責め」と題する詩は、まさに、ハンセン病患者の方々に対して甚大な人権侵害を与え続けてきた、国の永年にわたる誤った隔離政策を見過ごしてきた法曹(弁護士ら)に対する痛烈な問いかけでもあったのです。
私たち瀬戸内弁護団は、中山秋夫さんのそのような思いが詰まった「責め」という詩を、瀬戸内訴訟の訴状の冒頭に置いて、以来、ハンセン病訴訟を闘ってきました。
瀬戸内訴訟原告団の中心となり、訴訟を支えてくださった中山秋夫さんへの感謝とともにご冥福をお祈りします。
PR
コメント
1. 無題
中山様の思い。悲しい歴史を繰り返さないよう、国に、国民に訴える勇気と情熱は「ゆいの会」にも受け継がれ、絶えない灯火になったことと思います。原点となってくださった中山様の思いを、ひとりひとり、全国の皆さんに伝えられるようにしたいです。
2. 無題