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一般社団法人ハンセンボランティアゆいの会

ハンセンボランティア「ゆいの会」は、一般社団法人ハンセンボランティアゆいの会となりました。 岡山県瀬戸内市邑久町にある国立ハンセン病療養所長島愛生園 ・邑久光明園でボランティア活動をしています。 本ブログでは,当会の活動のほか,ハンセン病問題に関する 最新の情報も随時掲載しています。           

NHK「ジャッジ~島の裁判官奮闘記」

NHKのドラマ「ジャッジ~島の裁判官奮闘記」をご存じですか。奄美大島の自然の魅力に加え、ドラマもさわやかです。ぜひ、ごらんください。

「ジャッジ」の紹介↓
http://www.nhk.or.jp/dodra/judge/

ドラマをみていて、奄美大島を訪れたときのことを思い出しています。

奄美大島には、国立ハンセン病療養所「奄美和光園」があります。かの小笠原登医師が晩年を過ごした島であり、孤高の画家田中一村が69歳の生涯を終えた島でもあります。

小笠原登医師は、1888年に、愛知県甚目寺町にある圓周寺の住職の次男として生まれ、京都大学で医学を修めた後、ハンセン病治療にとりくみました。しかし、戦前には、当時の国策であるハンセン病患者隔離政策や断種手術には医学的根拠がないとして反対したため、「日本癩学会」から、妄説をなすものとして攻撃、追放されます。1947年12月京都大学を退官。国立豊橋病院に勤務。休日には圓周寺で僧侶としての勤めをする傍ら、ハンセン病患者の診察も行ったそうです。その後、奄美和光圓の1957年から66年まで勤務。66年10月、病に倒れ、和光圓を去り、圓周寺に戻って僧侶として晩年を送り、1970年に亡くなっています。

一方、田中一村は、中央画壇の権威主義に嫌気がさし、奄美に移り住みました。幼い頃は神童といわれ、長じては天才画家と仰がれたものの、生来の気性の激しさから中央画壇と相容れず孤立し、1958年、長く住み慣れた千葉をあとにして、たった1人で奄美に渡り、以来極貧の生活に絶え、孤独のうちに亜熱帯の動植物の織りなす幻想的で独創的な絵を描き続けました。

小笠原登への紹介状を携えて小笠原登を訪れた田中一村と、小笠原登が初対面のときから、互いに旧知のような親しみを覚え、意気投合したという話も有名です。小笠原の一生と一村の生き方は、一脈通じるものがあったのでしょう。

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