"長島愛生園歴史館"カテゴリーの記事一覧
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国立療養所長島愛生園の「愛生歴史館」が,4月リニューアル予定です。
今回のリニューアルでは,同館2階の図書室にあった図書,資料類を,隣に談話室(研修室)に移動しました。
図書室は,新たに入所者の方々の証言をDVDに収録したものをモニターで見ることができる部屋として生まれ変わります。
ぜひ,歴史館に来館の際には,リニューアルした2階にも,足を伸ばしてください。
長島にある長島愛生園,邑久光明園には,他の療養所には失われてしまった歴史的施設も多く残っており,ハンセン病の歴史を学ぶことのできる国立歴史公園という趣を備えています。
当会も,歴史館開設当初から,同館の運営ボランティアとして参加して,主に土・日の来館者に,館内や園内の歴史的施設等を,予約者の希望の見学時間にあわせて案内をさせていただいています。
長島愛生園HP(見学申込み先)
http://www.hosp.go.jp/~aiseien/
長島愛生園入所者自治会HP
http://ww32.tiki.ne.jp/~jitikai/menu.htmPR -
「ゆいの会」では、会員が、長島愛生園歴史館の運営ボランティア(主に土日)を行っています。
26日(土)は、来館者の予約(約70名のグループ)が入っており、午前11時30分から4時30分ころまで、長島愛生園歴史館の運営ボランティアで出かけてきました。
館内1時間と園内のフィールドワーク(患者収容桟橋、収容所、監房、納骨堂)1時間余りを行いました。来館者の方々から質問を受けたり、いろいろお話をするのも楽しみの一つです。
そのほかに、島根大学の学生の方々や数組の個人のグループなどが見学に来られました。
歴史館閉館後、帰りのバスの時間までのわずかな間、宇佐美治さんの部屋を訪ねました。近々、11日間の日程で、インドで行われる国際ハンセン病学会とIDEAの会議に出かけ、スピーチも行うという話を伺いました。80歳になっても衰えることのない探求心と行動力には驚きました。
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土曜日(11月17日)、長島愛生園の愛生歴史館の運営ボランティアで、午前11時から午後5時まで行ってきました。
午前中に、岡山、大阪、鳥取からの3団体の方、午後3組(予約なし2組)が見学に来られ、午後一組は、園内の施設の案内も行いました。
午後のグループには、看護師志望の中学生ら2名も含まれ、熱心に見学をしていかれました。愛生園には看護学校もあり、看護師をめざす若者にとって、命の尊さや人権の大切さを学ぶうえでも絶好の環境ではないかと思います。
歴史館には、ハンセン病問題基本法の制定に向けた100万署名の署名用紙もおいてあり、訪問者の方々も関心を持っていただき、積極的に署名をしていただいています。 -
愛生園の夏祭りの日、愛生歴史館を訪れた方から、展示室の年表で1300年代、ハンセン病減少とあるのは、どういう理由によるのですか、との質問がありました。
中世ヨーロッパで猛威をふった黒死病(ペスト)により、ハンセン病が壊滅にいたったと言われているようです。
腺ペスト(Bubonic Plague;Black Plague,Black Deathとも呼ばれる)は、1346年頃に、モンゴルの草原で流行が始まり、1347年に、クリミヤ帰りのイタリアの船舶に乗ったペスト菌が、シチリア島にある豊かな貿易港メッシナに上陸し、その後、またたくまに、ヨーロッパと北アフリカに広まった。
1346年から1350年のあいだに、ヨーロッパの総人口(2~3000万人)の少なくとも3分の1が黒死病で命を落としたと言われている。
一方、ヨーロッパではそれほど知られていなかったハンセン病は、ヨーロッパの都市が興隆するのを追って登場し、1200年ころにピークを迎えた。
このヨーロッパのハンセン病は、1346年の黒死病の襲来とともに姿を消した。なぜ、このような減少がおきたかについては確かなことはいえないが、いくつかの仮説が提起されています。
たとえば、黒死病が都市の人口密度を低下させ、それによって人間どおしの接触が減ったためであるとか、黒死病に耐えて生き残った人たちの免疫系の能力が、ペスト菌やらい菌を含む広い範囲の細菌に抵抗力があった。それらに加えて、ハンセン病に感染しやすかった人たちは、それ以外のさまざまな細菌の感染もうまく防御できず、大疫によって亡くなった等。
手元にある「LEPROSY(hansen`s disease)」(Karen Donnelly)という小さい書物等には、このように説明されています。
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8月4日(土)、愛生歴史館の運営ボランティアの担当で、歴史館に午後0時から行ってきました。昨日の予約は、地元小学校の先生方と大阪からの親子づれの二グループ。
歴史館と園内の歴史的史跡等を約2時間掛けて案内。こうした来訪者との、ハンセン病問題を通じての交流もボランティアの大きな楽しみです。
いま、愛生園の収容所(のちに回春寮と呼ばれる)を改修中です。すべての窓枠を改修することになっています。収容所は、愛生園開園当時からある貴重な歴史的建物です。
「ハンセン病資料館等施設整備懇談会」に提出したハンセン病資料館基本計画策定委員会(藤岡洋保(東京大学大学院理工学研究所教授・近代建築史)作成の「建造物調査報告書」(平成16年5月)においても、以下のとおり報告がなされています。
「回春寮(鉄筋コンクリート造平家、昭和5(1930)年)は、かなり傷んでいるが、当時の建物の雰囲気をよく残している。それは外観デザインや仕上げ、サッシュだけでなく、内部のデザインや漆喰仕上げを含め、ディテールにまで見られる。木製サッシュも当時のものと思われる。以上の点に建築史的価値が認められ、補修して保存する意義がある」。
「語り部覚え書」(阿部はじめ著)のなかの「収容所」という文章には、つぎのように書かれています。
「片上港から小さな無蓋の官船で約1時間海上を走って収容所の海岸に着いた。渡し板がかけられ、しわしわとしわる足許に気をとられながら看護婦に手を引かれ、やっと砂におり立った。一二月末の海は冷たく、しぶきを浴びて体は冷え切っていた。休む間もなく坂道を上がり医局に着いて濁った消毒風呂に入り、縞の着物に着替えさせられた。目の前で所持品が調べられ、現金は「預り」とされ、衣類は消毒場に回された。持って来た貯金箱の竹筒が割られ硬貨が散らばるのが目に焼き付いた。
収容所は約10台のベッドがあり、はじめてのベッド経験は心地よさをよけい大きくした。集団収容の時はベッドを仕舞ってゴザを敷いて寝るとのことだった。新患は一週間ここにいて、病歴や余病の有無などを調べられる。
一週間後、年齢、症状に応じて下がる舎が決められる。その日が来ると舎から何人かの者が迎えに来て、それぞれ荷物を持ち、列をつくって舎に向かう。私は一五歳未満なので山二つ越えた少年舎からおとっちゃんといわれる人が子供たちをひきつれに迎えに来た。
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アメリカ、カービル療養所の入口には、“この門より入る者、すべての望みを捨てよ”と書いてあるらしいが、この建物の入口に掛かっている「収容所」の筆太の字はこの施設の有様を端的に示しているともいえた。
後、誰の発案によるものか「収容所」の表札は「回春寮」と書きかえられた」
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7月22日(日)、トヨタ財団の2005年度研究助成(2005年11月1日~2007年10月31日の2年間、600万円)を受けて、「ハンセン病関連資料整備・保存活用研究会」が進めている、「ハンセン病施設における関連資料の整備集成並びに環境保全に関する研究」の最終報告書作成に向けた会合が、長島愛生園で行われ、共同研究者があつまりました。
本研究の目的は、「社会の病」とも言うべきハンセン病にまつわる関連資料の整備集成を行い、これを通して科学・技術と社会・文化との相互作用を、近代化の視点から歴史実証的に明らかにし、人類共通の遺産として、また社会的文化遺産として、人間の尊厳に対する民族の枠を超えた人類愛の歴史を開くことに寄与することにある。これを遂行するために、当事者、研究者、ボランティアの力を結集して資料の整備集成を行うとともに、環境に配慮した資料の保存方法と既設建築を利用した環境保全に関する調査研究を併せて行う。
また、これらの諸活動の中から、人の権利の向上や関係諸学の研究に携わる人材やグループを育成し、地域社会における多元価値創造への貢献も目的としています。
そして、本研究では、愛生園、恵楓園・待労院、神山復生記念館において、資料の整備集成及び環境調査を行ってきました。愛生園での資料整備集成の作業には、「ゆいの会」が協力をさせていただいています。
本研究会が行っている資料整備集成が、ハンセン病問題の歴史を後世に伝えるために、極めて重要な意義を有することはいうまでもないことですが、この成果が、出版物のかたちで残されること、さらに、今後も、これらの施設において、これらの資料が活用されるように、ネットワークが構築されることを期待したいと考えています。
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5月31日(木)、愛生歴史館の案内ボランティアでいってきました。
午後から、岐阜市立精華中学校から修学旅行生84名が、愛生歴史館を訪問されました。
広島の原爆資料館と長島愛生園でのハンセン病の学習(歴史館、園内フィールドワーク、語り部の話)を、研修のメインテーマに取り上げたということでした。
歴史館では宇佐美治さんと私が案内を担当し、園内の施設は、学芸員の田村朋久さんが案内を担当しました。その後、福祉会館に場所を移し、宇佐美さんの1時間あまりの講演と質疑応答があり、とても、生徒の皆さんの講演を聞く姿勢がまじめで、宇佐美さんも一段と力が入り、話はかなりご自分の身の上話にも及び、質問にも丁寧に答えておられた。
当日は、この様子を、山陽放送の萩原記者と宮崎カメラマンが取材をされており、生徒の皆さんのまじめな態度に、感銘を受けていました。このときの様子は、翌6月1日の山陽放送の夕方のニュースで放映されました。
山陽放送の萩原記者と宮崎カメラマンは、先日の草津でのハンセン病市民学会にも取材にかけてくれていました。当日の学会には、新聞社の取材はありましたが、テレビ局の取材はほとんどなかったようであり、岡山から駆けつけた熱意には、本当に敬意を表したいと思いました。
愛生歴史館は、ここ1年は年間約1万人のひとが訪れ、訪問者が増加しています。それだけ当会の運営ボランティアの役割も重要になってきていますが、今後も、さらに若い人たちが長島を訪れて、自分の目で、耳で、ハンセン病の歴史を学んでほしいと願っています。
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長島愛生園には,ご存じの愛生歴史館,神谷文庫などに貴重な資料が整理・保存されていますが,まだ施設内に未整理の資料がかなりあり,2006年3月から,トヨタ財団から研究助成を受けて,「ハンセン病関連資料整備・保存活用研究会」(代表・宮野秋彦名古屋工大名誉教授)が,2年間をかけて長島愛生園などでの,資料の整理・現地での資料保存の研究に取り組んでおり,「ゆいの会」の会員も,資料の整理に参加し,貴重な経験をさせていただいています。
来春に開館する国立ハンセン病資料館だけでなく,いくつかのハンセン病療養所において,現地で資料を保存し,ハンセン病の歴史を後世に永く伝えたいとの願いのもとに,資料館あるいは資料室が,あらたに開設されています。
しかし,国は,国立ハンセン病資料館以外の,各地のハンセン病療養所に開設された資料館(資料室)については,学芸員や司書を確保するための特別の予算措置を講じようとしないのが現状です。
今後とも,国に対し,これらの予算措置を強く求めていく必要があると考えています。 -
ゆいの会の活動のひとつとして長島愛生園の歴史館案内ボランティアがあります。
長島愛生園歴史館についてはこちら→ http://www.hansen-okayama.jp/topics/rekishikan.html
全国から訪れる見学者の方々の案内が、入所者の方だけではとても回らないということで、ゆいの会ボランティアもお手伝いしています。
歴史館は開館3年目にして来館者が3万人を突破しました。
多くの方がハンセン病の歴史に関心をむけているのを感じます。
以下は先日のボランティア活動報告です。
昨日(日),歴史館のボランティアに行ってきました。午前中に
徳島県の小学校の先生とその子どもたち約30人,午後は福山市の老人会の9人の方が来館され,熱心にみて行かれました。いずれも館内案内と園内案内(収容桟橋、収容所、監房跡、納骨堂など)をしました。
その間に,個人の方も来館されていきました。