"海外事情"カテゴリーの記事一覧
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台湾にある楽生療養院入所者の有志で結成している楽生保留自救会からの楽生療養院の一部移転問題に関する最新情報です。再び緊迫した事態となっており、台湾楽生院訴訟弁護団も、緊急声明を出す予定です。
(最新情報)
台北市捷運工程局は、昨夜(9月10日)プレスリリースを発表し、 楽生院入所者の同意のないままに同正門付近における工事を開始すると表明しました。 当局は「公共工程委員会における議論された 新しい方案に基づき、工事の遅れを最小限に 食い止めるため、12日から入所者の住む建物に 直接の影響のない正門付近から工事を開始する」 と言っていますが、入所者たちが反対を表明する なかでの一方的な工事の強行は、これまでのコンセンサスを踏みにじるものです。
当局の説明によれば「代わりの出入り口を設置し、 入所者に不便のないようにする」とのことですが、一旦工事が開始されれば、旧地区・新病棟とを問わず 出入りや日常生活に大きな支障をきたすことは必至 であるとともに、安全性の問題も深刻です。
現在までに、療養所当局はこれらについて 入所者側に一切説明していませんが、 おそらく秘密裏に工事の開始に合意していたものと 思われます。
また、明日朝には、工事の開始を順調に進めるため3月と同様に数百名の警官隊を導入するとの情報も入ってきています。
こうした暴挙を許さないため、みなさまには引き続き注目とご支援をお願いします。
楽生保留自救会 会長 李添培
(宗田昌人代筆)
プレスリリース原文はこちら
http://www.cna.com.tw/top10/20070910cap0256.html
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これまで、ソロクト訴訟弁護団の一員として、何度も、ソロクトを訪れ、そのたびにソロクトと対岸を結ぶ橋ができあがっていく姿を見てきましたが、今月(9月)には完成することになりました。
(拡大できます)
ニューヨークタイムズは、2007年8月9日(現地時間)、Aセクション4面全体を割いて、韓国の小鹿島(ソロクト)に、9月、小鹿島と全南高興郡(コフングン)ノクトン港を連結する小鹿大橋が完成するとの記事と、偏見と悲しみの歳月を送ってきたソロクトの歴史を振り返る記事を掲載しました。
同記事のなかで、ニューヨークタイムズの記者は、つぎのように伝えています。
ソロクトは、韓国でもっとも有名なハンセン病患者のコロニーであり、長い歳月、ハンセン病患者が生涯を通じて隔離され、沈黙のなかで死を迎える地であった。
9月25日の韓国の秋夕(旧盆)に合わせて、ソロクトと対岸を結ぶ橋が開通する。
1946年にソロクトに来て以来、島を離れたことがない69歳のKim Ki-sangハラボジは、「橋が開通すれば、もはや島ではなくなるだろう。かつては、私たちは、陸地と近いところで暮らしてきたが、自由がありませんでした。この橋は、悲しみの歳月から、わたしたちを解放してくれるだろう」と語った。
しかし、小鹿島が真に陸地の一部となりうるかは、不確かである。長い歳月をこの島で暮らし、陸との縁故を喪失した高齢の患者たちが、あえて橋を渡ろうとするだろうか?という疑問があるからである。
他方で、現在は、陸地からはフェリーでのみ渡ることができる小鹿島に、外部の世界が自由に入ってくることについて、かなり恐怖をいだいている。
自分たちのプライバシーを守るため、この小島にある7つの村は、外部の車両の立ち入りを禁止することになるだろう。
1957年に島に収容され、650人のハンセン病患者のリーダーであるKim Chung-hangハラボジは、橋をわたってくる人たちに対する統制は強化されるであろうが、利益を得ることを欲するならば、いくらかの犠牲は避けられないであろう、と述べている。
この地区の当局者は、「ハンセン病に対する偏見は消えているわけではないが、島の対岸の渡陽邑(トヤンウプ)から橋を架けることについては、地区ではほとんど反対はなかった。トヤンウプのホテルや店の経営者は、橋ができれば旅行者がトヤンウプに立ち止まる必要がなくなるため、営業に支障が生ずるのではないかということに、関心をもっている」と伝えている。
詳細は、↓
ニューヨークタイムズの記事
「A Korean Must Span Years of Bias and Sadness 」
http://www.nytimes.com/2007/08/09/world/asia/09lepers.html?emc=eta1 -
6月26日、駐韓日本大使が、日本政府が戦前の植民地時代にハンセン病患者を強制的に収容した全羅南道高興(コフン)郡小鹿島(ソロクト)を、解放後初めて訪問し、ソロクトへ強制収容されたハンセン病回復者に直接会いました。
大島正太郎駐韓大使は、まずこの間の苦痛に慰労の意を伝えた。これに対し、回復者らの代表者は、ハンセン病補償法による補償を受けていない者の平均年令は85才になり、この人たちが亡くなる前に、一人でも多くが救済されるように訴え、大島大使は、日本政府の基本方針に基づき、なるべく早く措置されるように努力すると語ったそうです。
韓国MBCTV(2007年6月26日) ↓
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=214&article_id=0000042779§ion_id=102&menu_id=102
私も、ソロクト弁護団の一員として、一日も早い救済のためにさらに努力を続けたいと考えています。
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5月12日~13日に草津で開催されたハンセン病市民学会の、2日目の分科会で、「台湾楽生院保留自救会」のメンバーが、台湾楽生院取り壊し問題の現状について報告しました。
その報告の概要です。この5月末から6月はじめ頃に、台湾政府は工事の計画変更について、結論を出すことになっているようですが、入所者らの希望が叶えられるか否かについては未知数であると、その見通しを報告しました。
楽生院の保存方案については↓
http://blog.roodo.com/hansentaiwan/archives/2961913.html
(報告概要)
「植民地時代の1930年に、「台湾総督府癩療養所楽生院」として開設された楽生院は、台湾唯一のハンセン病療養所であり、今なお300名ほどのハンセン病回復者が生活している。
戦後、国民政府も植民地時代の政策をそのまま引き継ぐ形で、集団収容等の政策を続け、台湾全島ばかりか中国大陸から渡来した将兵のハンセン病者を含め強制的に隔離した。こうした歴史的経過から台湾社会には、現在でもハンセン病に対する偏見・差別が根強い。
台湾では、1962年まで行政命令によって強制隔離が続けられたが、その後も隔離を主軸とする誤ったハンセン病政策が続けれ、今日に至っている。回復者の社会復帰に対する支援や社会的偏見を除去するための施策は一切なされないため、ハンセン病者・回復者の多くは、生まれ故郷に帰ることができず、多くの入所者らは、楽生院を「第二の故郷」として暮らし続けている。
しかし、台湾政府は、地下鉄建設工事のため、楽生院を取り壊し、全入所者を2005年に新しく建設された病院棟に移す計画を進めている。
300名あまりの入所者のうち、約半数が新病棟に移転したが、100名弱が療養所内旧地区にとどまって抵抗運動を組織しているほか、一時的に園外に生活の拠点を移して事態の推移を見守っている者もいる。
この問題は、地下鉄車庫・整備工場の建設用地として療養所の広大な敷地に白羽の矢が立てられたことに端を発している。
取り壊し計画が持ち上がった十数年前、入所者の間からは立ち退き反対の声が上ったが、政府・療養所当局は、彼らをここの「住民」とはみなさず、全く無視された。
2年前の一期工事の開始の際には、工事区域に住む入所者たちは、事前の通知もなく、着の身着のままで仮設住宅に強制移転させられた。
将来への不安が療養所内に広まるなか、学生ボランティアらによって「楽生院取り壊し反対」の運動が始まった。
台湾社会におけるハンセン病問題への認識不足もあり、当初は楽生院の文化財としての保存を訴えるという戦略が採られた。多くの専門家・知識人の賛同も得て、政府への陳情も行った結果、計画の一部変更を検討させることに成功した。
しかし政府は、計画変更に難色を示し続け、その間も地下鉄と新病棟の建設工事は進められた。
その後、入所者自身によって「楽生保留自救会」という抵抗組織が立ち上がり、居住権の保障を要求する闘いが始まり、支援者が常駐するようになった。
入所者のなかには、「ソロクト・楽生院保障請求訴訟」の原告もおり、自救会はこの訴訟を全面的にサポートする中で、日本の弁護団、支援団体との間の連帯の絆を築いてきた。
2005年の東京地裁の台湾原告勝利判決により、台湾のマスコミも報道するようになり、台湾社会のなかで、ハンセン病問題はにわかに注目を集めだし、これまでの運動の成果が徐々に実りだした。
2005年12月、立法院において、自救会の手によって起草された「台湾ハンセン病回復者人権保障法」の審議に着手した。
その後、楽生院の現状保存と地下鉄車庫の両立を可能とする「代替建設案」が、国の文化管轄省庁(文化建設委員会)の依頼により、英国の地下鉄建設コンサルタント会社によって作成され、2月に内閣に送られた。
しかし、内閣は適切な検討をすることなく、地方自治体に、取り壊しのゴーサインを出した。
2007年3月、政府は地下鉄工事を強行するための「強制退去の告示」を行った。
その後、与党の大統領候補者選びに出馬を表明している游民進党主席・前行政院長謝長廷氏が楽生院保存への支持を表明。陳水扁総統がこの問題に強い関心を示し、内閣に適切な処理を指示した。
こうした政府の態度軟化に、地方自治体、利権のからむ地元国会議員・地方議会議員らが強く反発し、「楽生院を取り壊せ」のデモを行った。新荘市長がデモの発起人となった。
このデモで地元で未だ根強かったハンセン病への差別が増長されることになり、入所者たちの心にも再び深い傷を残すことになった。
蘇貞昌首相は、4月11日、楽生院入所者代表・専門家・NGO・学生代表らと会見し、9日に行われた公共工程委員会主任委員によるヒアリングに基づき、専門家等の意見も聞き、90%保存案が技術的には大きな問題がないとの立場を理解し、その実現に最大限努力する旨を表明。
しかし、台北市捷運工程局・台北県政府は、なかなか積極的な対応を行わなかった。
また4月4日には、台湾国会で「ハンセン病回復者人権保障法案」の与野党協議が行われたが、法案に反対している地元新荘市選出議員が、この協議が行われている会議室に乱入し、会議を妨害し、協議を中止させるという暴挙に出た。
5月19日には、地元議員による取り壊し促進の二度目のデモが予定されており、予断を許さない状況にある。
現在、内閣によって工事の計画変更について協議が行われており、台湾政府は、5月末~6月はじめには、結論を発表する予定であるが、入所者の居住権を守りたいとの願いが叶えられるかどうかは未知数である。」
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台湾楽生院訴訟日本弁護団は,4月13日から15日まで台湾を訪問しました。その内容を報告します。
13日には,午後2時から,日本の国会にあたる立法院の会議室にて,台湾弁護団とともに記者会見しました。
現在,台湾では,国会に「ハンセン病人権補償法案」が提出されていますが,反対意見もあり,法案の審議が進んでいないといわれています。
そこで,このような状況を打破するために,国家賠償請求訴訟を提起することになりました。なお,台湾では,国賠訴訟は,関係機関に国家賠償請求の意思表示をなし、これを相手が受け入れない場合に,はじめて提訴できるという請求前置主義をとっているそうであり,台湾弁護団より、立法院に,訴訟の前提としての,「国家賠償請求書」が提出されたことが,記者会見で発表されました。
14日午前,弁護団は楽生療養院訪問を訪問し,午後1時半より,台韓日ハンセン病人権問題シンポジウムが開催されました。
ところで,現在,楽生療養院は,強制退去問題をめぐり、目の離せない動きとなっています。
台湾弁護団等の,行政院長への政治的働きかけが奏功し、現在,90%を史跡として残すという方向での動きがあります。
しかし,他方で,台北県知事と新荘市長、国民党代議士が、地元住民および新ビルに移転した入所者たちを巻き込んで,一刻も早い地下鉄工事の完成を求めているという動きもあります。
台湾政府が,入所者らがこれまで受けてきた被害や気持ちをしっかり受けとめた上で,だれもが納得できる解決をぜひ目指してもらいたいと願っています。
西日本新聞の記事です。↓
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/world/20070414/20070414_003.shtml -
日韓台弁護団(ソロクト・楽生院補償法請求訴訟弁護団)主催の、シンポジウムが、平成19年4月14日、台湾で開催されます。
現在、台湾では、ハンセン病そのものに対する一般国民の理解も不十分であり、ハンセン病に対する偏見は根強いと言われています。
また地下鉄操車場建設のため、戦前の日本統治下に作られた台湾楽生院以来の居住施設等の取り壊し問題もあります。
さらに、東京地裁での台湾楽生院訴訟判決後、台湾政府においても、ハンセン病補償法案が議会に上程されたもの、その後進展していない状況もあります。
台湾における、このようなもろもろの状況を打開するため、日韓台弁護団では、先だってのソウルでのシンポジウムに続いて、今回のシンポジウムを開催することになりました。
今回、日本からは、弁護団のほかに、ゆいの会のみなさんにもおなじみの、邑久光明園で働いておられた青木美憲先生(現在は守口保健所医師)も、シンポジウムに参加されます。
また、おなじみの長島愛生園の宇佐美治さんも参加され、当事者証言ということで、発言の機会があるとのことです。
なお、シンポジウムの日時場所は、以下のとおりです。
4月14日午後1時30分から5時
台北市延平南路一段127号文化大学大新館4F
4月15日は楽生療養院を訪問し、同日夕方には台湾を離れる予定だそうです。
宇佐美さんには、6月から始まる「ハンセンボランティア養成講座」で、愛生園を訪問したときにでも、おみやげ話を聞かせてもらうことにします。
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カラウパパ(ハワイ・モロカイ島)の歴史を記録したジャーナリストのジョン・タイマン(John tayman)が,2006年に出版した「The Colony」という本を,少しづつ読んでいます。amazon↓http://www.amazon.co.jp/gp/reader/074323300X/ref=sib_rdr_zmout?ie=UTF8&p=S001#reader-pageハワイ王国時代の1885年に始まったハンセン病隔離政策は,ローレンス・ジュッド(1929年から1934年までの間,ハワイ領知事)による見直しを経て,ハワイ州になってから10年後の1969年まで続きました。そして,カラウパパにおいて,1930年代後半の一時期,ハンセン病患者に対する断種手術が実施されたことや,その経緯が書かれています。2004年夏,カラウパパ・コミュニティで暮らす人は,20数名,平均年齢76歳とあります。ハンセン病市民学会年報2006に,森川恭剛先生が,「カラウパパにおける断種手術」という,この本の紹介論文を書いておられます。なお,森川先生が上記論文で引用されています
Tayman 「Colony」,Tony Gould 「A Disease in the Modern World」,Ted Gugelyk and Milton Bloombaum「The separating Sickness」
は,愛生歴史館の2Fの図書室に所蔵しています。興味のある方は,是非,一読を。カラウパパ国立歴史公園のHPカラウパパ国立歴史公園へは,ホノルル空港(オアフ島)から,モロカイ空港まで行き,そこからレンタカーで国立公園の背後に控える500mの断崖の上まで行き,さらに,そこからミュールで、500mの断崖を降りるコースと,直接に国立公園内のカラウパパ空港に降りるコースの二通りがあります。
いずれも歴史公園内を,カラウパパの居住者がボンネットバスで,歴史施設を解説しながら巡ります。 -
平成19年3月19日14時~17時、2007年 韓、台、日 三カ国ハンセン人人権シンポジウムが、韓国ソウルの国会議員会館大会議室で行われ、日本弁護団の一員として参加してきました。
主催 ハンセン人人権弁護団,(社)ハンビッ福祉協会共同主催
韓国では、ハンセン病回復者のことをハンセン人と呼んでいます。本シンポジウムは、日本での補償が決定されていない請求者についての補償問題、解放以後も韓国、台湾で発生しているハンセン病回復者に対する人権差別問題を解決するための特別立法制定など、様々な課題を討議するために、行われました。
シンポジウムは、ハンセン人人権弁護団長 朴永立氏、ハンビット福祉会協会長イム・ドゥソン氏、国会議員キム・チュンジン氏の挨拶が行われたあと、ドキュメンタリー映画「椿の花のお嬢さん」が上映されました。これは、小鹿島(ソロクト)で暮らしている回復者を描いた感動的な作品で近々日本語版も作られ、日本での上映も行われると聞きました。
第2部は、韓国でのハンセン人人権侵害事例が、解放前と解放後にわけて、各一名から証言がなされ、解放後も人権侵害、差別事件が続いてきたことが報告されました。
第3部は、ハンセン人人権法制定に関する論議が行われ、チョ・ヨンソン弁護士(韓国)から、「韓国のハンセン病元患者の日本政府に対する補償請求訴訟の経過と問題点、その課題」、徳田靖之弁護士(日本)から、「日本におけるハンセン病基本法制定運動に関する報告」、蘇恵卿氏(台湾東呉大学助教授)から「台湾ハンセン病特別法制定に関する報告」、韓国国家人権委員会から「ハンセン人権実態調査報告後の経過」、チャン・チョルウ弁護士(韓国弁護団)から、「ハンセン特別法制定の必要性と方向」と題する、各報告が行われました。韓国、台湾では、日本での補償請求訴訟判決のあと、特別法が国会に上程されたものの、その後進展していません。このような状況を打開するため、現在、台湾、韓国では、それぞれの弁護団において、解放後の自国の責任を追及する国家賠償訴訟の提起を検討していることが報告されました。
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3月17日(土)から20日(火)まで,韓国に出掛けてきました。
17日,18日には,日本,韓国,台湾の弁護士ら総勢10数名で,韓国のハンセン病回復者の定着村を訪問しました,韓国は,1960年代に,ハンセン病回復者の社会復帰策として,集団である土地に入植し,畜産等で生計を立てることをめざして,定着村を作りはじめました。現在89ヶ所の定着村があるそうです。
17日は,そのうちの一つである,忠清道にある「忠光農園」を訪れました。長老のお話では,当初は国の支援を得ていましたが,現在では自立し,忠光教会を中心として一つにまとまり,52世帯,120人(内,養老院に10世帯)が村で暮らしており,養鶏,養豚等の畜産事業に本格的に取り組んでいるとのことでした。4万坪のうち,約3万坪が42世帯の所有で,1万坪は郡の所有となっているとのことでした。
翌日は,忠清北道清原郡にある農園(正式な名称はまだないとのことでした)を訪問しました。この農園は,89ヶ所の定着村には入っていないとのことでした。当初,定着村を作ったときに,農園の園長が酷い人で,村人たちがつぎつぎと村を離れていったとのことです。1年前ころから,以前この村に住んでいた人達が戻りはじめ,現在6世帯が戻り,また他からも入植する人もあり,現在,16世帯45人が居住し,定着村を再建するために,頑張っているとのことでした。この村では家族が中心で,単身者は3人とのことでした,また3世代が一緒に暮らしているとのことで,訪れた時も,元気に走り回る幼い子どもたちの姿が印象に残りました。
定着村は,入植当時は,周囲の村の反対もあり,また入植後も生活難など多大な困難を抱えつつも,教会を中心にして,懸命に努力を重ね,家族を営んできました。しかし,定着村にも問題がないわけではなく,村の運営の在り方とか,後継不足とか老齢化という問題は深刻なようにも思いました。