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一般社団法人ハンセンボランティアゆいの会

ハンセンボランティア「ゆいの会」は、一般社団法人ハンセンボランティアゆいの会となりました。 岡山県瀬戸内市邑久町にある国立ハンセン病療養所長島愛生園 ・邑久光明園でボランティア活動をしています。 本ブログでは,当会の活動のほか,ハンセン病問題に関する 最新の情報も随時掲載しています。           

「小島の春」考
昨日の総会の映画「小島の春」を観て,当時の愛生園の状況がどうであったのか,ふりかえってみました。

「語り部覚え書 付-今はエピソード」阿部はじめ著(自費出版)によれば,小川正子が,愛生園で医官として勤務していた当時の愛生園の状況は,以下のようなものでした。

「長島愛生園は昭和6年定員400人で発足し,3月28日より収容を開始した,そして,同年8月早くも定員を超過する。そしてその後も収容者は絶えることがなかった。これは同年4月予防法が改正され,それまでの浮浪者対象から在宅の者まで完全収容する法律になったからだ。愛生園は各府県に検診医を派遣し,発見した患者を施設に送り込んだ。この地域分担主義を超えての収容は府県立の他施設から「やり過ぎ」との批判を受けたが,光田園長は「伝染病施設に定員はない」として収容を続けた。一万人収容構想に敗れて定員400名を与えられた光田園長の無念のようなものがあったのかも知れない。しかし,その背景には入所を求めて対岸にまで来て,入所を断られ自殺者があったことも事実だった。この状況を打開するため同年12月愛生園は十坪住宅寄付運動を起こした。「癩根絶のために十銭を投ぜよ。一棟600円で4人から8人の同胞が救われる」と書いた愛生献金袋を各府県に送付した。国の施策を待っていられぬという性急さが感じられる。
 この過剰収容によって昭和11年処遇低下に耐えかねた入所者が処遇の改善と自治を求めて全員の血判を添えた嘆願書を内務大臣に提出しハンストに入るという「長島事件」が起こった。施設は「これで事業は停滞しお前たちは世間の同情を失った」と入所者を責めた。しかしこの事件によって予算は実員に近いものに改められたのは皮肉であった。

 光田園長は隔離の代償として愛生園を「患者の楽土」とすることを構想した。光田園長の理念は「愛生園歌」に率直に表されている。・・・(中略)・・・
この園歌は,毎月の月例開園記念日で歌われた。大家族主義の主役は患者作業だった。人間の生活に必要なあらゆる業種が揃っていた。作業は「療養の効果を上げるため」とされた。大風子油注射を週二回うけるほか治療らしいもののない中で毎日が退屈気分で男女関係の制限,外出禁止などで暴動の起きる要因もいたるところにあった。男女間の制限については結婚制度を取り入れることによって切り抜けようとした。それらのエネルギーを放散させるためにも患者作業は一つの安全弁となった。労働対価として外部の十分の一とも言われる作業賞与金の支給も仕送りのない者の貴重な収入であった。そして作業にはげむことによってみんなの生活がよくなり充実されて行くということもみんなの共感となって殆どの者が作業に従事した。・・・・・・病気のことは二の次で,この社会に順応することが優先された。看護,介護も自給自足だった。国立ではなく「患者立療養所」と言われた所以だった。・・・・昭和15年(皇紀二千六百年)全国療養所の収容患者数は9125名となり「一万人収容計画はほぼ達成された」とされた。」

小川正子が,愛生園に勤務していた頃,また,手記「小島の春」が出版された昭和13(1938)年から映画「小島の春」が初めて上映された昭和15(1940)年の頃の愛生園は、以上のような状況であり,映画のなかで描かれたような,「楽土」といえるような状況でなかったことは認識しておく必要があると思います。





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