"書籍・映画"カテゴリーの記事一覧
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山陽新聞の朝刊に長期連載されていた企画が、一冊の本になり、3月17日から販売されています。
【語り継ぐハンセン病 瀬戸内3園から】
山陽新聞社の阿部光希記者と平田桂三記者が、関係者へ綿密な聴き取りを行い、得られた貴重な証言がたくさん収録されています。ぜひ手にとってご覧下さい。
以下は、阿部記者から送られてきました本書の紹介文の内容から引用しました。
心の中の偏見、
差別、無関心……。
ハンセン病問題は終わっていない。
隔離の島で生きた
入所者の証言を記録。
W受賞
石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞
https://www.waseda.jp/top/news/47240
日本医学ジャーナリスト協会賞大賞
http://meja.jp/prize.htm本書は、2015(平成27)年1月から翌年3月まで山陽新聞朝刊に連載した「語り継ぐハンセン病―瀬戸内3園から」を単行本にまとめたものです。弊紙のエリアには、長島愛生園、邑久光明園(ともに岡山県瀬戸内市)、大島青松園(香川県高松市)と、実に三つもの国立ハンセン病療養所があり、長い歴史を刻んでいます。
しかし入所者の高齢化が進み、隔離政策の被害、差別の歴史といったハンセン病問題の重要な証言者が次々と亡くなってきていました。問題の風化を防ぐために、入所者の貴重な証言を記録し、ハンセン病問題の“今”、そして“未来”を問い掛けます。
出版に際し、この連載企画に加え、ハンセン病関連年表、ハンセン病関連主要法令集などを資料編として収録しました。
●四六判(128×188㍉) 総ページ数272㌻(口絵16㌻ カラー) 右開き 上製本
●定価 (本体1,800円+税)PR -
日本映画界を代表する俳優であった故高倉健さんが書いた『南極のペンギン』(集英社)を読みました。とても優しさに溢れている本ですが,このなかに,「奄美の画家と少女」という話が収録されています。http://www.shueisha.co.jp/topic/penguin/
田中一村と,ハンセン病療養所で暮らす少女の交流を描いた小品ですが,とてもいい話です。
田中一村は,1977年(昭和52年)9月11日,奄美大島の僻村の粗末な家で,看取る家族もなくひっそりと69歳の生涯を閉じた日本画家です。幼い頃は神童といわれ,長じては天才画家と仰がれていましたが,生来の気性の激しさから画壇と相容れず孤立し、1958年、一村50歳のときに,一大決心のもと,それまで住んでいた千葉から、たった一人で奄美大島に渡ります。以来,極貧の生活と孤独に耐えながら、亜熱帯の動植物を描き続けた画家です。
私は,田中一村記念美術館(http://www.amamipark.com/isson/isson.html)で,田中一村の絵をみたとき,南国の動植物の織りなす幻想的な美しさに目を奪われました。
その時に購入した,「絵の中の魂 評伝・田中一村」で,一村が,医師小笠原登とも交流があったことを知りました。小笠原登医師は、光田健輔を頂点とする日本癩学会で厳しく糾弾されながらも,国策の名の下に強行された絶対隔離と断種に対して反対し、患者の人権を擁護しようとした医師でした。その小笠原登が、晩年の1957年国立療養所奄美和光園に赴任します。そして、その翌年,一村は,中央画壇の権威主義に嫌気がさし,奄美に移り住みます。一村は厚生省九州地方医務局次長の小笠原登への紹介状を携えており,奄美についた一村は,待ち構えていた小笠原登から歓待され,初対面でありながら,意気投合したといいます。
一村は,療養所の入所者とも親しくなり,入所者の頼みを受け,その家族の肖像画を描くこともあったそうです。冒頭の「奄美の画家と少女」は,そのような実話がモチーフとなっているようです。
田中一村の評伝として,「絵の中の魂評伝・田中一村」(湯原かの子著,集英社)、「アダンの画帖 田中一村伝」(中野惇夫著、南日本新聞社編)、「田中一村 豊穣の奄美」(大矢鞆音著 NHK出版)などがあります。
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沖縄復帰40年企画作品「ひまわり 沖縄は忘れない あの日の空を」の製作協力券を購入していましたので,昨日,岡山県天神山文化プラザでの上映会に参加しました。
1959年6月30日に米軍のジェット機が,宮森小学校に墜落し学童11名,近隣住民5名の命が奪われ,重軽傷者210名という大惨事となった,いわゆる「石川・宮森ジェット機墜落事故」を元に,現在の沖縄そして日本の平和の在り方を問いかけた秀作です。
ぜひ,多くの人びとに見て欲しい作品です。2月10日には,倉敷で上映会があります。
2月10日(日) ①10:30
②14:00
③18:30
上映推進委員会
おかやま
( )
映画「ひまわり~沖縄は忘れない あの日の空を~」公式ホームページ
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昨日,入手しました。
Ili Na Ho'omana'o o Kalaupapa: Casting Remembrances of Kalaupapa | Official Bookstore
この本は,ハワイでのハンセン病の隔離政策(isolation polices)のため,1866年から,モロカイ島の中央北部から海に突きだした半島に定住させられることになった最初の人びとから,現在の居住者や彼らの親族の遺産を未来に継承していく家族らに至る,Kalaupapa(カラウパパ)の歴史を描いています。
本書には,Wayne Levin氏 が,1980年代から現在までに撮影した貴重な写真がたくさん収められています。
Anwei Skinsnes Law氏 とValerie Monson氏は,1979年には早くも,カラウパパの居住者およびカラウパパに送られた人たちの子孫へインタビューを行っており,これらのインタビューを含む両氏の文章で,カラウパパの歴史が綴られています。
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「Kalaupapa A collective memory」が,ハワイ大学から刊行されました。http://www.uhpress.hawaii.edu/p-8609-9780824836368.aspx
左写真は,「KALAUPAPA A COLLECTIVE MEMORY」の表紙。
同書は,575頁の大著ですが,比較的平易な英語で書かれています。AMZON.COMで入手できます。
著者のAnwei Skinsnes Law 氏は,彼女がティンエイジャーであった1968年にカラウパパを初めて訪れて以来,40年以上にわたり,ハワイイにおけるハンセン病の歴史を調査し,カラウパパにおいてオーラルヒストリーインタビューを行い,カラウパパの歴史についてのドキュメンタリーや本を生み出してきました。
1994年からは,IDEAのインターナショナルコーディネーターとして活動されてきました。
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能登恵美子さんの遺稿集「射こまれた矢」(皓星社)を読みました。
能登さんは,1985年に皓星社に入社して以来,一貫してハンセン病療養所の入園者の方々の作品を世に送り出してこられた。『海人全集』(1993年)をつくったときに,療養所に収容された子供たちの作品に出会い,以来,ハンセン病の問題に目が離せなくなった。
その後,『ハンセン病文学全集』(2002 年~2010年)などの編集に精力的に取り組んでこられた。
2004年に「ハンセン病問題に関する検証会議」が立ち上がる前に,厚労省が設置したハンセン病問題に関する研究班(班長酒井シズ順天堂大学教授)が,国立療養所栗生楽泉園を視察した際,長島愛生園の宇佐美治さんとともに参加し,初めて能登さんにお会いしたように思います。とても精力的にハンセン病の問題に取り組まれている方だという印象を受けました。
その後,ハンセン病関連の書籍が出版されるたびに新刊書を送ってくださっていました。
能登さんは,自らが心血を注いだ「ハンセン病文学全集」(全10巻)が完結した後,2011年3月7日に,49歳の若さで亡くなられました。
「射こまれた矢」を読んでいると,ハンセン病の問題に打ち込んでおられた能登恵美子さんの姿が偲ばれます。
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姜信子さんの「今日,私は出発する ハンセン病と結び合う旅・異郷の生」(解放出版社)を読みました。
同書の冒頭で,次のように書かれています。
「ハンセン病をめぐる問題に出合い,その問題の生まれてくるその根本のところが,自分自身にとってひどく切実で大切なことに感じられた。」「その切実で大切なことを自分なりに考え抜き,それを語るための借り物ではない言葉を探り当てたいと思い,ハンセン病という病(人間関係を蝕んでいく社会的な病という意味合いを含みこんだ「関係性の病」)を生きざるをえないところに置かれた方々を療養所に訪ねることになった。」
こうした療養所への旅のなかで出会ったハンセン病回復者5人の方々との対話を中心に構成されています。ぜひ手にとってみてください。
姜信子さんは,韓国のソロクトを舞台とした季清俊の小説の翻訳書『あなたたちの天国』(みすず書房)を出版されています。
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荒井英子さんの『弱さを絆に ハンセン病に学び,がんに生きる』を読み,多くの示唆をえるとともにとても感銘を受けました。
本書は,2011年11月20日に,教文館から刊行されました。
荒井英子さんは,2001年から,恵泉女学園大学人文学部(後,人間社会学部)専任講師を経て,准教授を歴任されましたが,2010年に逝去されました。享年57歳。
1999年に,岡山でハンセン病国賠訴訟に取り組みだした頃に,荒井さんの『ハンセン病とキリスト教』(岩波書店,1996年)を読み,とても感銘を受けたことを覚えています。
新著『弱さを絆に』には,2010年11月に急逝された荒井さんの遺稿集で,『ハンセン病とキリスト教』以降に公刊した9編の論文,卵巣がん発症前後5年間に公にした,エッセイ2編,チャペルアワー・礼拝メッセージ7編,講演2編が収録されています。
冒頭のエッセイの最後に書かれています。
「死」を悟ることは「生の充実」を悟ることでもあった。だから再発の兆候が現れたときも,「がんと共生」していくことに何の躊躇もなかった。と同時に,ハンセン病医学でもライ菌を撲滅するのではなく,ライ菌とともに生きていく方向をとっていれば,あのような非情な「病棄て」は不要であったものをと,改めて療養所の友たちの「人生被害」に思いを馳せた。