忍者ブログ

一般社団法人ハンセンボランティアゆいの会

ハンセンボランティア「ゆいの会」は、一般社団法人ハンセンボランティアゆいの会となりました。 岡山県瀬戸内市邑久町にある国立ハンセン病療養所長島愛生園 ・邑久光明園でボランティア活動をしています。 本ブログでは,当会の活動のほか,ハンセン病問題に関する 最新の情報も随時掲載しています。           

「とがなくてしす」草津重監房の記録

5月13日に、栗生楽泉園(群馬県)の重監房跡をはじめて訪れました。

1938年に栗生楽泉園に作られた重監房は、特別病室とも呼ばれました。現在は、基礎のみが残されており、これを現地で復元したいという運動が進められていることは、先日書きました。特別病室は、どのような構造となっていたのか、知る人はわずかだということです。

そうした人の一人である沢田五郎さんが、「特別病室をみた者として、記録に残しておかなければならないという責任感にかられ、栗生楽泉園機関誌『高原』に連載したものをまとめた」ものが、「とがなくてしす 草津重監房の記録」(2002年、皓星社)という書籍です。

沢田さんによれば、特別病室は、以下のようなものだったそうです。

「この特別病室があったのは、園の正門から西に入る道が八十メートルほど行って行き止まりになった先の、やや低地になったあたりである。今は礎石だけが残り、「重監房跡」と彫られた碑もたっている。建坪三十二・七五坪(約百八平方メートル)、二棟になっていて(一棟だが、迷路のように通路が入り込んでいたので、二棟と思われたという説もある)、治療室と看守の控室と、罪を犯した患者を入れる房が八房、一房の広さは便所を含めて約四畳半、床は厚い板張で、壁には、コンクリートがむき出しのところもあったが鉄板が張られており、高いところに1ヶ所明り取りの窓がある。この寸法は縦十三センチ・横七十五センチで、硝子戸が二枚はめられ、引き違いに動くようになっている。窓の外には鉄格子がある。食事を差し入れる窓は足元にあり、普通の便所の掃き出し窓よりも小さく、汁椀がやっとくぐるくらいとなっている。周囲には高さ約四メートルの鉄筋コンクリートの塀が巡らされ、内房も一房一房、同じ高さの塀で仕切られ、通路にも一房ごとに三尺角(約一メートル四方)の扉がある。その扉にはいうまでもなく、錠が下ろせるようにできている。」

「電気の配線はなされていたが電球は取り付けられてなく、収監者には袷一枚と布団二枚が与えられただけで、火の気は与えられない」

「明かり取りの窓は高くて小さいゆえ、幾重にも高い塀で閉ざされた塀の中は暗く、曇った日には昼夜の区別さえつかなかったという。そして、誰かが掃除をしてくれるわけではなく、箒も雑巾もないから、湿気るにまかせ、冷えるにまかせるほかなく、冬は吐く息が氷柱となって布団の襟に下がり房内は霜がびっしりと降りた。」
「収監者には減食の刑も課せられているので、日に二回、薄い木の箱に入れた少量の飯が差し入れられるだけである。」「おかずは朝昼とも梅干一個だった」


栗生楽泉園は1932年に設立され、その5年後の1938年12月に、この特別病室が建てられたましたが、その経緯はつぎのようなものです。

当局は、1931年の「癩予防法」改正の際に、さらに強い所内の規律維持手段が必要であると考えていましたが、その矢先、大島青松園で「ラジオ事件」、33年には外島保養院で「外島事件」、そして、36年には長島愛生園で「長島事件」が起こり、大きな社会問題となり、こうした状況のなかで、これらの騒動の首謀者を服役させる刑務所が必要ではないかという意見が高まり、それを具体化する場所として、楽泉園が選ばれ、特別病室が造られることになりました。

なお、植民地下にあった韓国の小鹿島(ソロクト)更生園には、1935年にすでに重監房が造られていました。

毎年、夏に開催されている厚労省と統一交渉団の「ハンセン病問題対策協議会」でも、特別病室の復元問題が一つのテーマとなっています。

拍手[1回]

PR

コメント

コメントを書く