"書籍・映画"カテゴリーの記事一覧
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『ドンべク・アガシ(椿娘)』
(監督 朴貞淑(パク・ジョンスク) 77分、韓国)
昨年の3月30日のブログで、少し紹介しましたドキュメンタリー映画『ドンベク・アガシ』が、国内で初めて上映されます。
日時:2008年2月16日(土)午後6時50分
場所:角筈区民ホール
〒160-0023
新宿区西新宿4丁目33番7号
TEL:03-3377-1372
FAX:03-3377-1073
info@shinjuku-kuminhall.co
韓国全羅南道高興郡にある島「小鹿島」。
日本の植民地時代、日本が、その島につくったハンセン病療養所「小鹿島(ソロクト)更生園」に収容され、戦後もソロクトで暮らしてきたハンセン病回復者を描いたドキュメンタリー映画です。
4歳のとき、ハンセン病患者であった両親とともに,小鹿島(ソロクト)に入り、78歳になった今も、その地で暮らしているイヘンシムさんの一生を通じて、植民地時代にハンセン病患者が耐えねばならなかった苦悩と、解放後の彼らの前に立ちはだかった厳しい現実を描いています。
イヘンシムさんは、ハンセン病ソロクト訴訟の原告でもあります。
機会があれば、ご覧ください。
www.docuheemang.com/(日本語のHP)PR -
皓星社から、「やがて私の時代が来る-小笠原登伝」(大場昇著)が刊行されました。小笠原登は、以前にも本ブログにも書きましたが、戦前、国策としてハンセン病隔離政策が遂行されていた頃に、これに反対をとなえた医師です。興味のある方は、書店で手にとってご覧ください。
皓星社のHP
http://www.libro-koseisha.co.jp/top03/rb1178.html
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現在、各地で上映し好評を得ている、中山節夫監督の「新・あつい壁」の上映会を、「ゆいの会」で企画中です。岡山では、まだ一般市民を対象とした試写会、上映会が実現していません。
ぜひとも、実現したいと考えています。
なお,岡山県は、来年6月に岡山県内2カ所で上映を計画しているそうです。
「新・あつい壁」は、「ぴあ」で、満足度第一位を獲得しました。
http://www.pia.co.jp/news/hot/20071122_cinemaranking.html
「新・あつい壁」に関する部分の記事
雑誌「Weeklyぴあ」調査による、11月17日公開の映画の満足度ランキングは、ハンセン病への差別の実態を見つめた力作『新・あつい壁』がトップに輝いた。2位には1956年のハンガリーを舞台に、革命に身を投じた若い男女の姿を描いた『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』、3位には『スパイダーマン』シリーズで人気を博したジェームズ・フランコ主演の『フライボーイズ』が入った。
(映画満足度ランキング表)
今週、1位を記録した『新・あつい壁』はハンセン病差別のこれまでの歴史と、現状を描く作品。訪れた観客は「“ハンセン病への差別・偏見”という言葉からイメージする以上のことが描かれていて、深く考えさせられた」「ハンセン病患者に対する差別のあまりの残忍さに悲しくなった」とハンセン病問題の根深さに深く考えさせられたようだ。また「観終わった後に語り合える作品」「映画には人の心を揺り動かす力があると感じた」との意見も聞かれ、娯楽だけではない、“映画の魅力”を感じた観客も多かったようだ。
本ランキングは、2007年11月17日(土)に公開された新作映画10本を対象に、ぴあ編集部による映画館前での出口調査によるそうです。 -
お昼に、原爆症認定訴訟全国弁護団会議(東京)から戻り、事務所に立ち寄ると、長島愛生園の宇佐美治さんの刊行されたばかりの「ハンセン病絶対隔離に真向かった70年 野道の草」(みずほ出版 2007年11月20日発行)が、届いていました。
本書のあとがきで、宇佐美さんは、「雑草(あらぐさ)は、敷きつめられた石畳のわずかな隙間からさえ芽を出し、生きている。麦は踏まれることによって強く真っ直ぐに生長する。レンコンは、水中の泥のなかで生長する-。ふるさとの原風景が私の心の中で蘇り、拙著の主題を「野道の草」と決めました」と書かれています。
本書をよむと、宇佐美さんが、子ども心におぼろげながらも、野に育つ草のようにたくましく生きたいと思っていた気持ちを、今まで、ずっと持ち続けてこられたこともわかります。
「私にとって国賠訴訟はなんであったか。それは、まず、自分が変わらなければならない、ということを教えられたことです。」とも述べられています。
「野道の草」の内容
第1部 深海に陽光きらり
第2部 「陳述録取書」より
第3部 「本人調書」より
第4部 座談会
第5部 講演記録
第6部 資料編
あとがき
第1部は、自らの半生において心に焼き付いていることなどを語っています。
第2部は、ハンセン病国賠訴訟瀬戸内訴訟で裁判所に提出した「陳述録取書」です。
第3部は、前記訴訟における宇佐美さんの証言調書です。
第4部は、本書刊行のために企画された座談会の記録です。
第5部は、愛知県津島市で行った講演に加筆されたもの。
「野道の草」
ISBN4-901750-47-X
出版社 みずほ出版
発行日 2007年11月20日
定価 2000円+税
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NHKのドラマ「ジャッジ~島の裁判官奮闘記」をご存じですか。奄美大島の自然の魅力に加え、ドラマもさわやかです。ぜひ、ごらんください。
「ジャッジ」の紹介↓
http://www.nhk.or.jp/dodra/judge/
ドラマをみていて、奄美大島を訪れたときのことを思い出しています。
奄美大島には、国立ハンセン病療養所「奄美和光園」があります。かの小笠原登医師が晩年を過ごした島であり、孤高の画家田中一村が69歳の生涯を終えた島でもあります。
小笠原登医師は、1888年に、愛知県甚目寺町にある圓周寺の住職の次男として生まれ、京都大学で医学を修めた後、ハンセン病治療にとりくみました。しかし、戦前には、当時の国策であるハンセン病患者隔離政策や断種手術には医学的根拠がないとして反対したため、「日本癩学会」から、妄説をなすものとして攻撃、追放されます。1947年12月京都大学を退官。国立豊橋病院に勤務。休日には圓周寺で僧侶としての勤めをする傍ら、ハンセン病患者の診察も行ったそうです。その後、奄美和光圓の1957年から66年まで勤務。66年10月、病に倒れ、和光圓を去り、圓周寺に戻って僧侶として晩年を送り、1970年に亡くなっています。
一方、田中一村は、中央画壇の権威主義に嫌気がさし、奄美に移り住みました。幼い頃は神童といわれ、長じては天才画家と仰がれたものの、生来の気性の激しさから中央画壇と相容れず孤立し、1958年、長く住み慣れた千葉をあとにして、たった1人で奄美に渡り、以来極貧の生活に絶え、孤独のうちに亜熱帯の動植物の織りなす幻想的で独創的な絵を描き続けました。
小笠原登への紹介状を携えて小笠原登を訪れた田中一村と、小笠原登が初対面のときから、互いに旧知のような親しみを覚え、意気投合したという話も有名です。小笠原の一生と一村の生き方は、一脈通じるものがあったのでしょう。 -
本日、長島愛生園入所者の金泰九さんの自叙伝「在日朝鮮人ハンセン病回復者として生きた わが八十歳に乾杯」の出版をお祝いする会が、岡山市内のホテルで、100名余りの知人、友人等が出席し、なごやかな雰囲気のなかで行われました。
「ゆいの会」からも、当会の会員で、コーラスグループ「コスモス」のメンバーの文さんが出席し、「イムジン川」とオリジナル曲(「ゆいの会のテーマソング」となっている歌)、2曲を披露し、会の雰囲気を一気に盛り上げました。
自叙伝を書くきっかけについては、平成19年度ハンセン病問題対策協議会が開催された8月22日に、東京にご一緒した際に、たまたまお聞きしました。
「今年の3月ころのある晩、80歳になってなにも残さず、人生を終えるのは寂しいと寝付かれないままに想いにふけっていたときに、ふと、これまでの自分の経験したことを書き残したいという思いに駆られた。そのときに「わが80歳に乾杯」という題名までが頭に浮かんだ。そして、一気に原稿用紙に数十枚を書いた。その後、出版に至るまでには紆余曲折があったが、最終的には、「牧歌舎」の社長さんが原稿を読んで出版を引き受けてくれることになった。本当に有り難かった。」
今日の挨拶のなかでも、この話を紹介されていました。
1刷りは2000部を出版されたそうです。
ぜひ、書店でご覧ください。
「在日朝鮮人ハンセン病回復者として生きた わが八十歳に乾杯」(金泰九) 牧歌舎 定価(本体1600円+税)
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写真家の太田順一さんは、「ハンセン病療養所 隔離の90年」「ハンセン病療養所百年の居場所」(解放出版社)という、とてもいい写真集を出されています。ごぞんじですか。
2005年に出版された岩波ジュニア新書の1冊に、その太田さんの「ぼく写真家になる」という本があります。
その中に次のような文章があります。
「一年間の取材をまとめて写真集『ハンセン病療養所 隔離の90年』が1999年に出た。でもそのとき、ぼくには今一つ満たされた思いがしなかった。いつもなら味わえるはずの仕事を成しとげたという手ごたえが希薄なのだ。理由は自分でもわかっていた。ハンセン病療養所をのぞいてみて、記録して残しておかなければならないことがまだまだいっぱいあると気づいたからだ。それに、療養所が終焉を迎えているという現実があった。
・・・
ごく近い将来、日本からハンセン病療養所が消滅してしまう、そのことの実感がぼくを二度目の療養所めぐりへと急がせた。2001年から翌年にかけて再び全国を旅し、前の写真集の続編となる『ハンセン病療養所 百年の居場所』を2001年に出した。前回行けなかった私立二園の写真も加えることができた。
『隔離の90年』では、〈人〉を中心にして療養所の日々の暮らしを撮ったが、『百年の居場所』では〈人〉は一切写さなかった。写真集に出てくるのは〈もの〉だけ。やがて消えるであろう療養所の風景や建物、それに昔の遺物-。そういったものいわぬ〈もの〉に療養所の歴史を語らせたいという思いだったのだが、なかでもぼくが特に力を入れて撮ったものがあった。それは入園者の部屋だ。
寮舎だからアパートのように画一的で、どの部屋も決まった間取り、決まった造りになっている。でも一歩なかに入ると、住んでいる人の個性や人柄が、棚の上の置物や吊された服、壁の飾りなどに反映されていて、どれひとつとして同じ部屋はない。まさに百人百様の部屋なのだ。そんな部屋の写真を通して、いろんな入園者がいるということを描きたかった。
いろんな人がいるなあ-。二度にわたる療養所めぐりを通じてぼくがいちばん感じたことは、このごく当たり前のことだった。・・・・」
いま日本のハンセン病療養所の将来のあり方が、切実な課題として、わたしたちに突きつけられています。
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Stanley Stein 「Alone No Longer」の日本語訳が、明石書店から出版されました。
日本語訳『アメリカのハンセン病 カーヴィル発「もはや一人ではない」』
本書は、アメリカルイジアナ州にあるカーヴィル療養所で、ハンセン病患者として生き、所内から新聞「スター」紙を発行し、偏見と差別に闘う声を、全世界に発信しつづけたスタンレー・スタインの自伝です。
本書の出版に尽力された笹川記念保健協力財団理事の山口カズコ氏は、「この作品はスタンレー・スタインという一人の優れた観察者の個人的回想録という域を超えて、当事者が冷静なまなざしで自らの環境を観察し、広く深い知識と強い使命感で外の世界を変えようと試みた他に類をみない記録であり、社会の偏見を鋭く突くその洞察力は、今読んでもまったく古さを感じさせない」と、あとがきで、述べておられます。
原著(英語)も、長島愛生園の歴史館にも所蔵されていますので、興味のあるかたは、ぜひ手にとってみてください。
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平成18年度岡山大学学長裁量経費・地域貢献支援事業「歴史資産の保全と活用に関するネットワーク・岡山」報告書 岡山史料ネットⅡ(2007年3月)に掲載されている南智先生の、「歴史資料の保存と活用」という論考のなかで、「ゆいの会」の活動が、以下のように紹介されています。この間、ボランティアとして精力的に関わっていただいた皆様に感謝します。
今後ともよろしくお願いします。
「ハンセン病関係資料については、この他にトヨタ財団研究助成による長島愛生園関係資料についての、環境に配慮した資料の保存方法と既設建築を利用した環境保全に関する調査研究がある。この研究の遂行に当たっては、当事者・関係者・研究者・ボランティアの力を結集して整備集成を行うという方針で進めており、前記岡山の資料調査専門員は重要な役割を果たしている。ボランティアは主に入所者に対して様々な支援活動を行っている「ゆいの会」が加わっている。ボランティアの人々には、研究の意義、データ入力作業の説明を資料調査専門家が行ってから活動を開始した。
また、こうした組織的な研究の進行と時期を同じくして、旧長島愛生園事務本館に資料を展示して「歴史館」として、ハンセン病問題の教育・啓発に生かすことになった。2003年8月8日「長島愛生園歴史館」として開館し、学芸員も配置され教育・啓発を中心にした活用が進められている。この展示は、学芸委員を中心に入所者自治会、前記ボランティア「ゆいの会」が展示説明を行っている。歴史館や施設見学等を通じてハンセン病問題を正しく理解し、偏見・差別を解消していく活動が展開されているが、2006年11月29日には入館者が30000人に達した。さらに、こうした取り組みの中で、園内の1930年代に建設された旧事務本館、恵みの鐘等を国の登録文化財へという動きが生まれている。」
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先日購入した、加藤周一氏の「夕陽妄語Ⅷ」(2007年5月30日刊 朝日新聞社)に、『在日コリアン詩選集』読後という文章がある。
このなかに、つぎのような、印象に残った一文がありましたので、紹介します。
「『在日コリアン詩選集1916年ー2004年』(森田進・佐川亜紀編、土曜美術出版販売、2005年)を読んだ。そこには、おそらく世界中のどこでも重要であるだろう問題(あるいは主題)が扱われている。
例えば失われた「ふるさと」の歌。1922年韓国生まれ、20歳で日本に来て、45年ハンセン病療養所に入った香山末子(かやま すえこ)は、その後一度も韓国へ行ったことがなく、その国の「唐辛子のある風景」を思い出す。
私の古里はわら屋根ばかり
秋になると わら屋根に
真赤な唐辛子が干される
どの家の屋根も
秋空のもとに唐辛子が映えて
(「唐辛子のある風景から」から)
その「真赤な景色」が鮮明なのは、それを二度と見ることができず、それが「今どうなっているだろうか」さえわからないからである。
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『在日コリアン詩選集』の、詩人たちの歌の内容は、彼らが生きた経験と分かち難く、その経験は固有の環境と歴史によって鋭く条件づけられている。しかし、この条件の特殊性は、詩的表現の限界ではない。むしろ、逆に、環境と歴史の、したがって経験の個別的一回性は、その表現がそこに執(しっ)すれば執するほど、深く徹すれば徹するほど、普遍的なものとなり、世界に向かって開かれる。ーこの逆説こそは詩的創造力を定義するのではなかろうか。
私は世界一周の旅から帰って『在日コリアン詩選集』を読んだ。そして、秋の空の下の唐辛子の屋根を思い浮かべ、夜中に耳をすまして体中のふるえるような歌声を聞くのは、決して在日コリアンの詩人ばかりでなく、想像力のある世界中のすべての読者であるだろうことを思った。」